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浦和地方裁判所 平成7年(モ)2319号 決定 1997年1月27日

主文

一  当裁判所が当庁平成七年(ヨ)第三七九号競業行為禁止仮処分命令申立事件について平成七年九月一九日にした決定を取り消す。

二  債権者の本件仮処分命令申立てを却下する。

三  申立費用は、異議申立て以後のものを債権者の負担とし、その余を債務者らの負担とする。

理由

第一  当事者が求めた裁判

一  債権者

当裁判所が当庁平成七年(ヨ)第三七九号競業行為禁止仮処分命令申立事件につき平成七年九月一九日にした仮処分決定(以下「原決定」という。)を認可する。

申立費用は債務者らの負担とする。

二  債務者

原決定を取り消す。

債権者の本件仮処分命令申立てを却下する。

申立費用は債権者の負担とする。

第二  事案の概要

一  紛争の背景

審理の結果、以下の事実が認められる。

1  当事者

(一) 債権者は、<1>呉服展示用具の賃貸、<2>その他用具の賃貸、<3>展示会場の賃貸、<4>これらに附帯する一切の業務を目的として、昭和四一年一〇月一四日設立され、いわゆるイベントの設営を中心にこれに関連する業務一切を行っている株式会社であって、現在では、東京本社のほかに、京都、大阪、名古屋、札幌に支店を、東京都内に三箇所、成田、京都、大阪、名古屋、札幌に各一箇所ずつ商品センターを有している。平成六年ころ現在で、従業員数は、社員二六〇、登録従業員三〇〇であり、取引先は、百貨店、商社、ホテル、結婚式場など三〇〇〇社を越え、年商は約五〇億円弱に及び、業界屈指の知名度と市場占有率を有するに至っている。

(二) 債務者小林茂一(以下「債務者小林」という。)は、昭和五〇年三月債権者に採用され、営業本部営業第一課長、営業第一グループ長を経て、東京営業部部長を最後に平成七年五月一〇日退職した。

(三) 債務者木村博(以下「債務者木村」という。)は、昭和四八年七月債権者に採用され、営業本部営業第六課長代理を経て、東京営業部営業第三課長を最後に平成七年三月一〇日退職した。

(四) 債務者株式会社ケイ・スリー(以下「債務者会社」という。)は、平成七年五月一五日、<1>内装仕上工事の設計、施工及び請負、<2>電気工事の設計、施工及び請負、<3>造園工事の設計、施工及び請負、<4>展示会、即売会、催事場の設営に関する事業、<5>販売促進用ポスター、パネルの販売及び展示会イベントに使用する物品のリース並びに販売、<6>照明器具のリース及び販売、<7>植木、苗木、種苗及び肥料の販売、<8>これらに付帯する一切の業務を目的として、設立された株式会社であり、その業務の中心は、債権者のそれとほとんど完全に一致している。

債務者会社の設立当時、その取締役は、債務者小林、申立外金井研治(以下「金井」という。)、同木村とよ子(債務者木村の妻)であり、代表取締役は債務者小林であったが、平成七年一一月二七日、同債務者は取締役を辞任し、代わって申立外内藤征二(以下「内藤」という。)が、取締役に就任し、同時に代表取締役にも就任した。

ただし、債務者会社が設立直後作成して発送した開業の挨拶状に取締役として記載されているは、債務者小林(代表取締役)、金井及び債務者木村の三名であり、そこに木村とよ子の名は見られない。

金井は、債権者の下請の電気工事会社である申立外株式会社アイトウ電気の役員又は従業員であった者、内藤は同社従業員であった者であり、二人は、平成六年一二月、共同して債権者の業務と同種の業務を行うことを予定して同社を去り、その準備を進めてきていた。

2  競業禁止特約の存在

債務者小林及び同木村は、いずれも、退職に際し、債権者の用意した以下の文言の「退職確認書」と題する書面に署名捺印(拇印を含む。)した。これらに記載された退職金の額は、債務者小林の場合は三三六万八六四〇円、同木村の場合は三四六万八八〇〇円である。

私議 この度 一身上の都合により 退職致したくお届け致します。退職するに際し貴社に対し今後一切の労働債権が残っていないことをここに確認致します。

なお、円満に退職するため、退職後においても貴社の機密漏洩はもちろんのこと、就業規則第45条第7項に則り、退職後3年間は同業他社に就職すること、および個人あるいは会社として同業を営むことは一切致しません。また、貴社の事業に関する書類(在職中の機密文書等々)の一切を持ち出すこと無く返還致します。

万一、機密文書等の持ち出し、または同業の事業に従事し貴社にいささかなりとも不利益や損害を与える恐れがある場合は、貴社に対し退職金の返還はもちろんのこと如何なる損害賠償責任を負う事、またその行為の中止を請求されても一切異議を申し立てない事をここに誓約致します。

よって円満退職とすることを双方確認するものとする。

なお退職するに対し、退職金として

金…円也

右金額確かに受け取りました事をここに書面にて確認致します。

3  就業規則中の競業禁止規定

債権者の就業規則(以下「本件就業規則」という。)には、従業員の責務を定めた四五条の七項として、「退職後三年間は同業他社に就職しないこと、および個人または会社として同業を営まないこと。」との規定がある(以下「本件競業禁止規定」という。)。

右就業規則は、従前から存在したものが、平成三年四月一一日に全面改正された後、平成六年四月一一日と平成七年二月二八日に部分的改正が加えられて今日に至っており、右競業禁止規定は、平成七年二月二八日の改正により新たに付加されたものであって、それまで同内容の規定は存在しなかった。

4  退職金規程

債権者には、昭和五六年一月三一日に中央労働基準監督署に届け出られた退職金規程(以下「本件退職金規程」という。)があり、そこでは、従業員は、勤続満三年未満の者及び懲戒解雇された者である場合を除き、勤続年数、自己都合の退職か否か等によって定まる所定の支給基準率に退職時の基本給月額を乗じた額の退職金の支給を受けること、退職金は退職後すみやかに全額支給されること、本人在職中の行為で懲戒解雇に相当するものが発見されたときは支給されないことなどが定められている。

債務者小林及び同木村の退職金を、両債務者の退職がいずれも自己都合による通常のものであるとして、右規程によって算出すると、以下のとおり、それぞれ五九九万七四七八円及び五七五万二〇三三円となる。

債務者小林の場合

基本給 三一万〇三〇〇円

勤続年数 二〇年二月

支給基準率 二四・一六×〇・八

退職金額 五九九万七四七八円

債務者木村の場合

基本給 二七万八九〇〇円

勤続年数 二一年七月

支給基準率 二五・七八×〇・八

退職金額 五七五万二〇三三円

5  就業規則中の従業員の都合による退職に関する規定

本件就業規則中の従業員の都合による退職に関する規定である二四条には、<1>従業員が自分の都合で退職しようとするときは、遅くとも二箇月前までに書面によって退職願を債権者に提出しなければならず、二箇月以内の債権者が認めた日が退職日になること、<2>従業員は退職願を提出した後も右退職日まで引き続き勤務しなければならないことが規定されている(民法六二七条参照)。

6  従業員による集団的退職と競業開始の動き

債権者の従業員の中には、労働条件を含む債権者の事業の進め方に不満を抱き退職していく者が従来から少なくなかったが、平成六年ころ以来、退職して債権者との関係を断ったうえ、自ら同種業務を行おうとする動きが従業員の間に強まり、例えば、債権者の元従業員である申立外渡辺博光、同蔵本亮太、同斎藤雅靖らは、退職のうえ、平成六年九月一日、右渡辺博光を代表取締役として、目的を<1>呉服展示用品の賃貸、<2>展示会場の賃貸、<3>前各号に附帯する一切の業務とする株式会社「日本リース株式会社」を設立して、債権者の業務と競合する業務を開始し、同じく債権者の元従業員である申立外笹井靖郎、同浅川紀明、斎藤吉朗らも、平成六年九月から一二月にかけて退職して、個人あるいは会社の名で右と同種の業務を行うようになった。

7  競業行為実施についての退職時前後における債務者らの認識

このような状況の下で、債務者木村及び同小林も、退職の意思を強めていき、債務者木村は平成六年七月一〇日ころ、同小林は平成七年三月二三日、それぞれ退職願を提出するに至ったが、債権者側からの慰留などもあって、退職が実現したのは、前述のとおりそれぞれ平成七年三月一〇日及び同年五月一〇日となった。

債務者らが退職の意向を有していることを知った金井から、債務者木村については平成七年二月ころ以来、同小林に対しては同年四月ころ以来、退職したら同人らの計画している事業に加わらないかとの勧誘がなされた。

債務者木村は、退職願い提出時から退職時を通じて、退職後は友人の営む飲食店で働きつつ飲食業の経営を身につける計画であったこと(この計画については債権者側の者にも話していた。)からこの勧誘を断ってきており、退職時においてもこの点に変わりはなかったので、競業禁止特約を成立させることについて格別の心理的抵抗を感じることはなかった。しかし、その後、退職実現までに期間を要したことなどのため友人の協力が得られなくなって右計画の実現が不可能となったうえ、他の再就職先も見つからなくて困っているところに、金井から再び勧誘を受け、直ちにこれに応じた。その際、競業禁止文言を含む退職確認書に署名捺印したことが気にはなったが、同様の書面を作成した者が現に同業他社で働いていることなどを金井から告げられ、かまわないだろうと考えこれに応ずることにした。

債務者小林は、退職後どうするかにつき、長年やってきた展示装飾の業務を独立してやりたいとの気持と、飲食業(スナック)をやりたいとの気持(この気持については債権者側の者にも話していた。)の間で揺れていたが、金井の熱心な勧誘もあって、平成七年四月下旬には、これに応じて同人らの事業に加わることを決意するに至った。しかし、五月一〇日の退職に当たり、債権者代表者から前述の退職確認書を示され、そこに競業禁止文言が含まれていることに気付いてそれに署名捺印することに抵抗を感じたが、就業規則に同内容の規定があるのであれば結局競業実施は許されないことになるであろうと考えたこと、署名捺印を断れば円満退職や退職金受領が円滑に実現されないのではないかと心配したことなどから、金井らの事業への参加は断念することにして、署名捺印した。ところが、同日夜、やってきた金井及び内藤に右いきさつを話して共同事業への不参加につき了解を求めたところ、逆に両者から、同様の書面に署名捺印しながら同業他社で働いているにもかかわらず債権者から何もいわれていない者が二、三名いる、退職確認書中の競業禁止文言は職業選択の自由を奪うものであって無効であると弁護士が述べている、などといって説得され、再び金井らの説得に応じることにした。(債権者は、債務者小林及び同木村が、本件各競業禁止特約を成立させる際、退職後債権者の業務と競合する業務に従事する確定的な意思を既に有していたと主張し、これを前提に、このような意思を有しながら本件各競業禁止特約を成立させた右債務者両名の背信性を強調する。そして、退職時と債務者会社の設立の時期との接近の度合い--特に債務者小林についていえば、退職から債務者会社の設立までに五日しか経過していない。--や、右債務者両名が債権者側の者に飲食業をやりたい旨の意向を伝えていたことなどに照らすとき、この主張にもうなずけるところがある。しかし、この点に関する《証拠略》を総合すると、右のとおり認定することができる。)。

8  債務者らは、いずれも、債権者の行っているのと同一種類の業務を行う意思を現に強固に有している。

二  主要な争点

本件は、右事実関係の下で、債権者が、債務者ら各自に対し、債権者と競業関係に立つ業務の差止めを命ずる仮処分の発令を求めている事案であり、その際、債権者が根拠とするのは、債務者小林及び同木村に対する関係では、両者との間に成立させた前記各競業禁止特約(以下「本件各競業禁止特約」という。)であり(本件就業規則中の本件競業禁止規定そのものは、根拠として主張されていない。)、債務者会社との関係では、債務者小林及び同木村に対する差止請求権の存在を前提とした、いわゆる法人格否認の法理又はいわゆる債権侵害に基づく妨害排除請求権である。

主要な争点は、本件各競業禁止特約の効力の有無であり、債務者らは、右特約は、詐欺(債権者は、債務者小林及び同木村に対し、本件競業禁止規定は無効であるにもかかわらず、有効であるように偽って、債務者らが既にこれにより競業を禁止されているように、債務者らは本件退職金規程により退職金を受領する権利を有しているにもかかわらず、右規程の存在を隠して、右権利が存在しないように、誤り信じるに至らせ、右債務者両名は、いずれも、これらの誤解に基づいて本件各競業禁止特約を成立させた、というのが、債務者らの詐欺の主張の骨子である。)による取消し、錯誤(債務者小林及び同木村は、いずれも、本件競業禁止規定は無効であるにもかかわらず自分が既にこれにより競業を禁止されているように、本件退職金規程により退職金を受領する権利を有しているにもかかわらず右権利が存在しないように誤り信じ、この誤解に基づいて本件各競業禁止特約を成立させた、というのが、債務者らの錯誤の主張の骨子である。)、あるいは公序良俗違反の、すべてあるいはいずれかにより無効である旨を主張し、債権者は、これらをいずれも否定して同特約の有効性を主張している。

第三  当裁判所の判断

一  一般に、何人にも職業選択の自由が保障され(憲法二二条一項)、また、一切の事業活動の不当な拘束を排除することにより、公正で自由な競争を促進すべきものとされている(私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律一条参照)我が国においては、基本的には、競業禁止は、たとい合意によるとしても、無制約に許されてはならないものというべきであり、それが許されるのは、それを必要とする合理的理由があるとき、その必要を満たすに必要な範囲でのみ競業を禁止する合意が、正当な手続きを経て得られ、かつ、禁止に見合う正当な対価の存在が認められる場合に限られるものというべきである。特に、使用者と労働者との間で成立させられる競業禁止の合意については、企業者同士の間の合意に比べて、当該合意を成立させることにより利害得失についての双方の考慮の合致の結果としてのものというより、一方(使用者)の利益を守るためのみのものとして成立させられる危険が大きいから、この点はより厳格に解すべきものということができる。

二  当裁判所は、右を前提にして、以下の各事情の下では、本件各競業禁止特約は、仮にその効力が認められるとしても限られた範囲内においてであって、それを超える部分においては、公序良俗違反により無効となり、その時間的範囲に関して見た場合、少なくとも現在においては効力を有しないものであると判断する。

1  本件各競業禁止特約が債務者らに課する競業禁止の負担は、退職後三年間すべての競業行為をすべての地域において禁止するというものであり、その期間、地域、職種などの範囲のいずれからみても、競業を行おうとする債務者らにとって重大な制約となるものである。

2  本件各競業禁止特約は、その内容自件、一方的に債務者らに義務を負担させるだけであり、債務者らは、右特約により、それが存在しない場合に比べて、失うもののみがあり、得るものは何もない。例えば退職金について見た場合、債務者らが本件各競業禁止特約の成立と同時に受領した退職金の額は、むしろ、本件退職金規程によって算出されるものに比べて、債務者小林につき二六二万八八三八円、同木村につき二二八万三二三三円少なくなっている。

3  本件各競業禁止特約は、債務者小林及び同木村(以下、右両債務者のみを意味するものとして「債務者ら」ということがある。)が既に退職願を提出して相当期間(債務者小林の場合約一・五箇月、同木村の場合約一〇箇月)が経過した後になって実現した退職のときに成立したものであり、勤務継続中に勤務継続の前提とされていたものではない。

4  本件就業規則中の本件競業禁止規定も、債務者小林については退職願を提出する直前であり、同木村については退職願を提出してから約八箇月後である平成七年二月二八日になって新設されたものであって、これを、債務者らがその存在を前提にその下で就業してきたものとすることはできない。

5  債権者の側に、本件各競業禁止特約におけるように退職後の従業員による競業を厳しく禁止するということ以外の方法で守ることの困難な正当な利益が存在したことは、本件全証拠を検討しても認めることができない。

企業が、その従業員が退職後直ちに無制約に自己と競業関係に立つことはないことを前提にした形での事業遂行方法を選びたいと希望することは、ある意味でごく自然なことであり、このような選択が全く許されないことになれば、事業遂行方法に大きな制約が加わり、企業の活力が失われることにもなりかねないから、この希望は、正当な利益として一定限度においては法的保護に値するものというべきである。しかし、この保護は、当該事業の性質や当該従業員の従事していた任務の内容などに照らして判定されるべき一定範囲に限られるべきであって、通常は本件各競業禁止特約におけるように退職後の従業員による競業を厳しく禁止することにまでは及ばないものというべきであり、債務者らの場合がその例外の場合に該当することを認めるべき証拠はない。

6  本件各競業禁止特約は、本件競業禁止規定の存在を前提に、しかも、債務者らが本件退職金規程の存在とその内容を伝えられることなく、成立したものである。

本件各競業禁止特約が本件競業禁止規定の存在を前提にしていることは、前認定の各確認書の文言自体で明らかである。そして、就業規則で定められている事項については、たとい不満であっても逆らうことができないと考えるのが通常の労働者であろうと思われるから、本件競業禁止規定の存在が前提にされたとの事実は、その限度で、本件各競業禁止特約を成立させるか否かについての債務者らの自由な意思決定を妨げる要素を包含するということができる。

債務者らが、本件各競業禁止特約を成立させるに当たり、改めて本件退職金規程の存在とその内容を伝えられていないことは、審尋の全趣旨で明らかである。また、債務者らが本件退職金規程の存在あるいはその正確な内容を知らない状態で本件各競業禁止特約を成立させたとの事実は、現実に受領した各退職金の額と右規程により算出される各退職金の額との対比から容易に推測することができる。債務者らがこれらを知っていたのなら、現実に受領した退職金の額に不満を示す何らかの言動に出るのが通常であろうと考えられるのに、本件の異議申立後になるまでの間にそのような言動に出た痕跡は、本件全証拠を検討しても見出すことができないからである。そして、債務者らが本件退職金規程の存在あるいはその正確な内容を知らなかったとすれば、退職しようとしている労働者として、退職金を得よう、あるいはその額をできるだけ多くしようと考える債務者らが、債権者の求める書面への署名捺印を拒むことに困難を感じ易くなることも、見やすい道理というべきである。

二  以上のとおり、本件各競業禁止特約は少なくとも現在においては効力を有しないものというべきであるから、これと異なる内容の原決定を取り消したうえ、債権者の本件仮処分命令申立てを却下することとし、主文のとおり決定する(原決定を根拠とする既存の執行事件が全く存在しないことは審尋の全趣旨で明らかであるから、原決定の時点から現在に至るまでの間の効力については、あえて判定することをしない。)。

(裁判官 山下和明)

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